映画「巴里のアメリカ人」

物語は、パリに住むアメリカ人の売れない画家ジェリー・マリガン(ジーン・ケリー)が、アメリカ人の実業家女性マイロ(ニナ・フォック)というパトロンを見つけるのですが、ジェリーは実業家女性より酒場でであった若い娘リズ(レスリー・キャロン)と恋に落ちます。ところがリズは、ジェリーの友人の音楽家アダム(オスカー・レヴァント)の友人アンリ(ジョルジュ・ギタリー)の婚約者だったという展開です。

製作は1951年で、翌年のアカデミー賞で、作品・脚本・作曲・衣装デザイン・撮影・美術の6部門受賞した作品です。以前ビデオで見たときから、そんなにいい映画なのか?と思ってました。そしたらプレミアという映画雑誌で、“映画史上最も過大評価された20本”に選ばれているとか。

ところでこの映画のDVDバージョンでは、本編終了後“撮影は1954年”というクレジットが出ます。

問題の中身ですが、これは現在の視点で見るとたしかに過大評価だと思います。

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映画「さよなら子供たち」

映画は淡々と子供たちの生活をつづり、子供たちが感じるように陰で大人たちが何かしているという雰囲気を示唆します。

ジュリアンは、ジャンとの別れを永遠の別れだとは(その時点では)思っていなかった様子。しかしドイツ軍の、超然たる行動にただならぬ雰囲気を感じつつ、連れ去られる友たちを眺めます。このリアルな感覚がとてもいい。声高に主張するでなく、あの時代のあの空気の中では日常だった態度をとるしかない少年ジュリアン。ラストは成人したジュリアンのセリフ、“あれから40年たった。しかし僕は、あの1944年の1月を、決して忘れない”というセリフが、じわりとこたえます。

ジャンたち同級生はアウシュビッツで死に、神父はマウトハウゼンで死んだとのこと。こういう事実があったことを、忘れようとする人がいるし、なかったことにしようとする人もいます。僕も正直な話、こういう事実と向き合うよりは、別の世界で楽しんでいるほうがいいと思います。

「シラノ・ド・ベルジュラック」

物語は、詩人で剣豪のシラノが、従妹にほれているにもかかわらず言い出せず、逆に従妹がほれ込んだ若造との恋の橋渡し役を引き受けるというもの。シラノは17世紀に実在した哲学者で詩人、そして剣豪だった人だそうで、それを基にエドモン・ロスタンが戯曲化して有名になったようです。今回はジャン・ポール・ラプノーとジャン・クロード・カリエールがエドモン・ロスタンの戯曲から脚色しています。

劇場では見たことがなく、ビデオしか知りませんが、それでもフランスの映画界がかなり力を入れた大作だということは分かりました。上映時間の2時間19分という部分だけでなく、町の人々の生活感や、画面の背景に登場する市民たちの雰囲気がとてもいい。そういうことで劇の内容が膨らんで感じられるということを実感した作品でした。それは今回見直しても同じです。

ほかにスティーブ・マーティンの「愛しのロクサーヌ」という作品を見ていますが、恋文を代筆したり、物陰に隠れて代わりにしゃべるなんていう設定の部分を、今回の作品はうまく処理していると思いました。

ドキュメンタリー「世界を変えた日」

当時の映像を編集し、そこへジュリアーノ市長やラムズフェルド国防長官、チェイニー副大統領らのコメントをかぶせます。当時から言われていたことですが、FBIやCIAはテロの可能性を示唆していたのに、政府がそれを重要視しなかったらしい。たしかに1993年に一度、貿易センタービルを爆破しようとしていました。

そしてFBIやCIAがアルカイダに注目していたので事件後すぐにアルカイダの仕業と発表しアルカイダが拠点としているアフガニスタン侵攻を決定したということです。

そういう政治家さんたちの綱引きはともかく、ジュリアーノ市長らの生々しい証言が痛切です。あの時何度もニュースで悲惨な事実を知らされてきたけど、やはり僕は自分の記憶の中でふたをしてしまっていた部分がある。嫌なことは思い出したくないわけで、それは自己防衛本能ではありますが、そういう自分をそのまま許してしまってはいけないと思うわけです。

ジャンボ機のビルへの激突を知った空軍が、直ちに戦闘機を離陸させますが、防空予算の削減でニューヨーク界隈には4機しか配備されていなかったという事実にも驚きます。

映画「女と男のいる舗道」

物語は、レコード店店員のナナ(アンナ・カリーナ)が、バーで男と語らう場面から始まります。女優を目指したいから写真撮影という話に乗りかけるけど、裸はイヤだ、みたいな。ナナは金に困っていて、アパートの家賃を滞納していて入れてもらえない。やがてナナは売春婦として路上に立ちます。

冒頭のナナのアップから度肝を抜きます。

ゴダールは、斬新な手法を次々と取り入れるので、その手法が取り上げられてしまいます。

今回の作品だと、バーでの男と女の会話を後ろからとらえ、それぞれの表情をほとんど見せない。あるいは12景に区切り、さらにその中を幾つかのパートに区切るというスケッチの積み重ねという感覚が、観客とドラマの距離感を保ち、しかしそこに展開するドラマは切実な悲劇だというところがすごいと思います。

ゴダールを外見だけ真似たバカな日本人監督がことごとく失敗しているのは、カメラを向けた対象のドラマをきちんと構築しないからです。

映画「勝手にしやがれ」

物語は、ミシェル・ポワカール(ジャン・ポール・ベルモンド)という小悪党が、マルセーユからパリに出てくるところから始まります。途中で警察の検問を無視して白バイに追われ、追いかけてきた警官を射殺してしまう。パリに着いたミシェルは、ニースで知り合ったアメリカ女性パトリシア・フランキーニ(ジーン・セバーグ)が忘れられず、彼女を追いかけます。パトリシアは新聞記者志望で、ヘラルド・シリビューンをシャンゼリゼで売っている。二人は親しく過ごすのですが警察の手が伸びて、という展開です。

原題は“息切れ”ですが、これを「勝手にしやがれ」という邦題にしたあたり裏話を聞いてみたいものです。僕の想像では、今までの映画作りの常識からかけ離れた作り方を目にした配給会社の人間が、半分やけになってつけたのではないかと思うのです。

たとえばパトリシアにジャーナリストたるにはといううんちくを語る記者をとらえたシーンで、ぽんぽんとカットが飛ぶいわゆるジャンプ・カットなんて、当時はNGでしかなかったはずです。あるいはドリーの代わりにカメラマンをキャスター付きのイスに乗せてそれをゴダールが押したなんていう手法(ジャン・ピエール・メルビルが考案したそうです)も、それが分かる人には驚愕だったと思うのです。

映画「死刑台のエレベーター」

物語は、武器を販売しているカララ商事に勤めるジュリアン・タベルニエ(モーリス・ロネ)が、社長夫人のフロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)といい仲になり、カララ氏を殺して一緒になろうとするところから始まります。自室で残業していると見せかけ、一階上の社長室へロープを伝って忍び込み、首尾よく殺害したまではいいのですが、帰りを急ぐ社員からの内線電話にあわてて、ロープをそのままにして社外へ出てしまう。

そのロープを取りに戻ったら、電源を落とされてエレベーターに閉じ込められるわ、車を若いカップルに盗まれて、その若いカップルがタベルニエを名乗り、モーテルで殺人を犯す、という展開です。

冒頭、公衆電話からモーリス・ロネに決行をうながす電話をかけるジャンヌ・モローのどアップ。そこにマイルス・デイビスのジャズがかぶさるところで、この映画に乗るかどうかが決まります。この画面と音楽の感触がこの映画のすべて。当時29歳のモローが、存在感抜群です。

「レクイエム~ミカエラの肖像」

物語は1970年代のドイツ。ミカエラ(発音はミヒャエラです。俳優はサンドラ・フュラー)に大学合格通知が届くところから始まります。

父親(ブルクハルト・クラウスナー。「白いリボン」の神父さん)は喜ぶけど、母親(イモゲン・コッヘ)は反対する。すると娘は、薬はきちんとのむし最近発作は出ていないと主張します。そして大学の寮に入るけど、という展開です。

この“病気”が何かを明らかにしないで話が進んでいく、その宙ぶらりんさが不満でした。カメラも手持ちでガタガタ揺れるという、最近の流行スタイルで不愉快だし。やがてその病気が“悪魔憑き”だろうという方向へ進みます。教区の神父は、悪魔なんて神の教えを伝えるための手段で想像上のものだと言い切るのですが、別の神父は悪魔祓いをしようとする。ミヒャエラ本人は、今までどの医者にかかってもきちんとした治療もされず、それぞれ出す薬も違うため訳が分からなくなっています。

問題は、この映画が悪魔憑きというものを対象化していないところにあります。

映画「ヘンリー・フォンダ マイ・ライフ」

結論を言うと、フォンダが“私は幸運だった”と語る姿勢が好きです。自分の才能とか努力とかは語らず、運がよかっただけとする彼の人生哲学がすてきです。

つまりフォンダは、自分と同等以上の才能を持つ俳優たちが、ついに日の目を見ずに終わってしまった例を山ほど知っているからです。

そしてずっと、下積み時代の生活を忘れなかった人だから。←5番目の妻(!)シャーリーが、すぐには要らない食材を買いこんできて、ブロッコリを4日後に出したら怒られたというエピソードが面白いです。

舞台から映画に招かれカメラの前で初めて演技したとき、ビクター・フレミング監督から“天井桟敷の人間に対する演技はよせ”と言われ、すぐ修正した話もすばらしいです。

映画の中のキャラクターは、それぞれの映画と共に生き延びます。

とりの俳優の人生を、ここまでみごとに再現できたら、これはやっぱりたいしたものだとしか言いようがないです。

僕もラッキーな人生をへらへらと生きてきましたが、ヘンリー・フォンダという俳優からは、学ぶところが多いと感じました。

「アメイジング・グレイス」

マイケル・アプテッド監督のイギリス映画で、18世紀末のイギリス議会で活躍したウィリアム・ウィルバフォースの奴隷貿易禁止法案成立にかけた約20年を描きます。

“アメイジング・グレイス”という曲は、僕にとってはまず加川良の“ある朝”というフォークソングでした。それが“アメイジング・グレイス”の詞を変えたものと知り、アレサ・フランクリンの“アメイジング・グレイス”を聴いたりしましたが、それが奴隷貿易禁止というテーマに沿った歌とは知らなかった。この映画では、ウィルバフォース議員が議員仲間相手に朗々と歌い上げ、自身の結婚式にも流れ、最後にエンド・タイトルでも流れるというしだいです。

ウィルバフォースを演じるのはヨアーン・グリフィス。Ioan Gruffuddとつづられたらどう読んでいいのか迷ってしまいますね。両親がPeter and Gillian Griffithsとimdbにあるので、ウェルシュの表記にしたのでしょうか。僕はthsというラストは無声音だという線でこのカタカナ表記にします。